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風景写真の見方は自由なのか?

会社としては28日で仕事納めとなりましたが、まだ私の仕事は片付いていません。今日、29日に出社することは想定していましたが、どうやら晦日も出社することになりそうです。

さて、28日に友人と呑んでいたということは、既に書きました。そのとき、お店のご主人に、ある不思議な日本酒をすすめられました。
見た目はいわゆるにごり酒で、口に含むと微かにヨーグルトのような風味の程よい酸味があり、マイルドな舌触りで滑らかにのどに落ちていきます。
ご主人は、その味をよく覚えておいて、次は舌の上で7、8秒とどめてみてくださいと言いました。
言われた通りにしてみると、どうでしょう! 口の上で微かにお酒が発泡し、心地よく舌を刺激しながら風味がさらに広がるのです。それはもう、美味しいという言葉を超えた、口の中の快感です。
実はそのお酒は、瓶の中で酵母が生きている本物の生酒であるとのこと。
低温で保存しているので酵母は活動を止めていますが、口の中の温度で、再び酵母が働きはじめ、発泡するのだそうです。
ご主人から説明を受けないと、とても口当たりの良いお酒として、普通にクイクイ呑んでいて、このお酒の本当の実力を知ることはなかったはずです。

写真を鑑賞する、という行為もそれと似ているような気がします。
このお酒のように、実は写真も真の感動を味わうには、鑑賞する側にも知識や感性、あるいは作法が求められるのだと思うのです。
もちろんそれは、絞りがいくつだとか、露出がどうだといった表面的な技法を云々することではありません。作者が目の前の風景に何を感じ、作品に何を込めようとしているのか、その“心”を読むことです。

「写真をどのように見ようとそれは鑑賞者の自由である』と言う人もいます。しかし、本当にそうでしょうか。
なんとなく耳障りの良い意見ですが、「写真の見方が自由」というのは、かなり誤解をまねく言い方だと思います。
確かに写真は、鑑賞者のイマジネーションに委ねる部分が多い表現ではあると思いますが、かと言って、作者がそこで何かを伝えようとしている以上、「どのように受け止めようが見る側の自由」というのは言い過ぎです。
しかし、現実には、かなり多くの写真愛好家が、“自由”という言葉の心地よさに流され、“写真を読む”ということをしていないように思えます。

少し話は変わりますが、前に書いた「模倣の行く末」が、小林義明さんのサイトのBBSで取り上げられていて、私が好き勝手に書いていることが、多少なりとも問題提議になったのかな、と喜んでいます。

その中で、小林さんがこんなことを書かれています。
「人の写真の良さを分かる人は、その写真を撮る素質があると思います」
私はこの一文を、「人の写真の心を読むことができる人は、その人と同じ発見の眼差しと感動する心を持っている」という意味だと、勝手に解釈しました。

場所とタイミングで狙う風景と違って、主観的な風景写真は絵面だけをまねようとしても、かなり難しいと思います。
それは、はじめに固定化されたイメージありきではなく、発見した場面、出合ったシーンに応じて表現を創っているからです。
しかし、人の写真に写された意図を読み取り、その心に共感ができる人ならば、たまたま同じようなシーンに遭遇したとき、敏感に心をふるわせ、作品をものにすることができるはずです。
そのような作品は、結果的に絵柄が似ていても模倣とは言いません。
なぜならそれは異なる出合いであり、異なる発見によるものだからです。
# by fukei-kaoru | 2007-12-30 05:03 | 仕事

仕事納めの夜のありふれた情景

呑んだ後、ラーメンを食べたくなるのが最近の悪い癖。
お寿司屋さんで呑んだあと、編集部に戻って少し仕事をしていると無性にラーメンが食べたくなってきました。
「今年で最後にしよう」と自分に言い聞かせ、ふらふらと最近ちょっとお気に入りの春日駅近くのラーメン屋さんへと向かいました。

仕事納めの夜のありふれた情景_e0041948_4422172.jpg
Canon IXY DIGITAL2000 IS

暖簾をくぐると、店の中は、いかにも仕事納めの後に呑んで、二件目に寄ったという雰囲気のスーツ姿の団体(10人くらい)でほぼ満席です。
「すぐにお席を用意しますから」と言われて、一つだけ空いていた席に押し込められたのですが、無関係の会社の忘年会の中に一人座っているみたいで、居心地が悪いったらありゃしない。
どうやら、宴も締めに入っているようで、部長(だと思う)のたれる人生訓が、否応なく耳に入ってきます。

部長(だと思う)「人生って言うのは、前に出るか、出ないかできまるんだ。(以下、しばらく経験談=自慢話が続く)」
課長(だと思う)「私も、そのお話をおききして、前に踏み出したから、今があるんだ。だから、君たちも今が前に出るときなんだ」
部長(だと思う)「その後、君は前に出れていないけどな」
課長(だと思う)「それはないですよ〜」
一同爆笑

あまりにもオジサン的なベタな人生訓と、見事としか言いようのないお追従に、やはり、オジサンと言われる年齢に差し掛かっている自分を思い、悲しい気分になってしまいました。
ラーメンもなんだかしょっぱい気がします。
事件が起こったのはその後です。

お決まりの一本締めで宴はお開きとなり、おそらく1年目の新人さんと思えるスラリと背の高い若い女性社員が、挨拶のために部長(だと思う)の前に立ちました。
当然のように手を出す部長(以下省略)。
その手を拒むことなど、絶対に彼女にはできないのでしょう。
直立不動のまま手を差し出すと、その手を部長は右手でがしっと握り、左手は彼女の手の甲の上を円を描くようにさすり始めました。

さらにその手をグイと引いたかと思うと、彼女の肩を抱き、額が触れんばかりに引き寄せたのです。
さすがに彼女も驚いたようにビクッと首をすくめ、笑顔も引きつっているように見えます。
「来年も期待しているからな」などと語りかけ、1分ほどもそうしていたでしょうか。
もちろん、周りも何も言いませんし、先ほどの課長などは横でニヤニヤ笑っています。その顔には「次は俺」と書いてあるようでした。

少なくとも、自分の会社の中で、こういう行為を見なくて済み、あるいはノーと言える立場であることは、幸せなことだなと、妙な納得をして家路についたのでした。
# by fukei-kaoru | 2007-12-29 04:46 | グルメ

仕事納め

我が風景写真出版も今日で仕事納め。
とは言え、例年のように、大掃除をする暇もなく、それどころか自分の机の上さえ片付けることもできずに、一年を終えようとしています。
いいえ、このままではまだ仕事を終えることができないので、多分、明日も出てくることになるんだろうな〜。

夜は、以前にこのブログにも書いたことがあるお鮨屋さんで、仕事関係の友人とささやかな忘年会。
美味しいお酒をいただきつつ、素材にこだわり職人の仕事が施された美味しいおつまみを食す幸せといったらもう!

今年一年、良いことも悪いこともあり、相変わらず忙しかったけど、こうして、気が置けない仲間たちと、杯を交わして一年を締めくくれるのだから、自分は幸せなんだな〜としみじみ思います。

これからしばらくはリラックスした時間を過ごしつつ、来年の計画など練って、新しい年に向けて、心と体をリフレッシュするつもりです。

休み中も時折、ブログは更新するつもりですので、気が向いたらのぞいてみてください。
取りあえず、皆様よいお年をお迎えください。
# by fukei-kaoru | 2007-12-28 23:22 | グルメ

今週の一枚

風景写真のモバイルサイトに「今週の一枚」というコーナーがあるのをご存知ですか? 編集部員が最新号の掲載作品の中から選んだお気に入りの1枚が週替わりで掲載されます(年末年始はお休みをいただきます)。プロの目で選んだ1枚は、はたしてどの作品か。ぜひ、アクセスしてみてください。
「画像投稿掲示板」にも投稿が入り始めました。こちらはケータイで撮影した写真で気軽に投稿していただけるコーナーです。
現在の募集テーマは「撮り納め」です。必ずしも作品でなくても、仲間との今年最後の撮影会の様子、みたいな写真でも結構です。投稿をお待ちしております。
# by fukei-kaoru | 2007-12-27 16:01 | 仕事

模倣の行く末

「○○だったら、私、凄い写真いっぱい持ってますから」
と言って、編集部に写真を持ち込んで来る方は珍しくありません。
○○には、裏磐梯、尾瀬、富士山などの有名撮影ポイントの地名が入ると思ってください。
私は、こういうことを言われた途端に、持ち込まれる作品について、ほとんど何も期待しなくなります。
すべて、とは言いませんが、このように言う人のほとんどが、よく知られたポイントで、“空がもの凄く赤く焼けた”とか“雲の形状が見たこともない、特異なものだった”とか“この時期、滅多に出ない霧が出た”とか、あるいはそのすべての条件が重なったといったような作品を持ってくるからです。

これから述べることによって、嫌な思いをする人がいるかもしれませんが、大事なことなので敢えて書きます。
少なくとも風景写真作家として誌面で取り上げるか否かを基準に作品を見るときに、よく撮られる場所の状況違いだけしか撮っていない写真家には、私はまったく興味が持てません。
もちろん、よく知られている撮影ポイントであっても個性的な表現の作品を撮ることはできます。しかし、「○○では、もっと凄い写真を……」と言われれば、その人がどういう狙い方をしているか、概ね想像はつきます。

風景写真をよく知らない写真家の中には、「日本にはもう撮るべき風景は残されていない」とか「日本の小さな風景より、海外にはもっと凄い風景がいくらでもある」と言って憚らない人がいます。
このブログでも何度も述べているように、風景写真とは地形や場所を撮るものではなく、心で見つけた風景を主観的に撮るものですから、そのような批判は当たりません。
もし、そのように言う人が人物を撮るカメラマンなら、こう聞きたい。
「あなたはスーパーモデルでないと、良い写真が撮れないのですか?」と。

しかし、そのような勘違いをする人がいても責められないのは、あまりにも風景のスーパーモデル狙いのアマチュア写真家が多いからです。
いえ、そういう人が多くても構わないのです。
問題は、風景写真がそこで完結すると思いこんでいる人が多すぎることです。
だから、冒頭の台詞が出てくるわけです。
「もっと凄いの持ってます」

よく知られた撮影ポイントで、特定のタイミングに起きる現象を狙ったり、撮影地ガイドで調べたポイントに出かけて写真を撮ることが悪いことだとは思いません。
むしろ、風景写真に親しみ、撮影の感覚を養う上で、他の誰かが見つけた風景に倣って撮ることは、とても良い修練になると思います。
また、自然のドラマに触れること自体にも風景写真の醍醐味はありますし、特定の場所、特定のタイミングの風景をコレクションしていくことも、また楽しみ方です。
ただ、その方向には風景写真の真の高みはないのです。
それは多くの場合、気象条件などの違いはあっても、習作であり、模倣であり、被写体の力に頼った表現なのです。

もちろん、すべての人が頂点を目指す必要はありません。
しかし、少なくとも表現として風景写真を楽しむ人であるならば、独自の表現を求めて、心で風景を撮っている作家、主観的表現のなされた風景写真に敬意を持ってほしいと思うのです。

どうして、こんな憎まれるようなことを書くのか。
それは、風景写真が抱えるさまざまな問題が、“場所狙い”の撮り方に起因していると思うからです。
例えば、限られたポイントに多数の写真家が集中することによるトラブル。
「日本には撮るべき風景はもはやない」などという浅薄な批判。
ポイントとタイミングを知っているという程度で“写真家先生”を名乗れてしまう、あるいは逆に才能ある風景写真作家が、ガイド、インストラクターとして埋没していく理不尽……。

難しいことではありません。
ほんの少しだけでも作品の心に目を向けて欲しい、そのシーンを見つけた作家の感覚を思って欲しい、そこからすべては始まると思います。

「100人展」を通じて、思いを同じくする全国の写真作家と交流を持てたことは大きな収穫でした。
2008年も、ささやかながら『風景写真』は風景写真の真の楽しみ、真の高みを伝えていきたいと思っています。
願わくば、これからも皆さんの理解とご声援を賜りたいと思います。
# by fukei-kaoru | 2007-12-26 22:36 | 仕事


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